矢板市立郷土資料館休館のお知らせ

日本遺産「那須野が原開拓」の紹介

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1.日本遺産とは

日本遺産とは、地域の歴史的魅力や特色をストーリーとしてまとめ、そのストーリーを構成する文化財等を整備・活用し、観光資源として国内外に発信し、地域活性化を図ることを目的に、文化庁により平成27年度から認定が始まった制度です。現在、全国で100件程度の日本遺産が認定されています。ユネスコによって登録される世界遺産は「文化遺産や自然遺産を保護」することを目的としていますが、日本遺産は「文化遺産や自然遺産を活用」することに重きが置かれています。

2.那須野が原開拓に関する日本遺産の認定

 矢板市・那須塩原市・大田原市・那須町の4市町合同で、「明治貴族が描いた未来~那須野が原開拓浪漫譚~」という題名のストーリーを作成し、文化庁に申請したところ、平成30年5月24日、日本遺産に認定されました。

3.ストーリーの概要

 わずか140年前まで人の住めない荒野が広がっていた日本最大の扇状地「那須野が原」。明治政府の中枢にあった貴族階級は、この地に私財を投じ大規模農場の経営に乗り出します。近代国家建設の情熱と西欧貴族への憧れを胸に荒野の開拓に挑んだ貴族たち。その遺志は長い闘いを経て、那須連山を背景に広がる豊穣の大地に結実しました。ここは、知られざる近代化遺産の宝庫。那須野が原に今も残る華族農場の別荘を訪ねると、近代日本黎明期の熱気と、それを牽引した明治貴族たちの足跡を垣間見ることができます。

4.矢板市内の構成文化財

山縣有朋記念館

 山縣有朋記念館に向かうと、2棟の建物が出迎えてくれます。向かって左側の紺色の洋館が山縣有朋の使用していた別邸で、右側の白い洋館は子孫の方が昭和初期に建造した邸宅になります。
 山縣有朋の別邸は、明治42(1909)年、有朋晩年の別荘として知られる小田原の古稀庵内に建てられました。有朋は大正11(1922)年に亡くなるまで、この別邸で歴代首相や閣僚などと頻繁に国事を論じたと伝わっています。 
 建物を設計したのは、明治~昭和にかけて建築家として活躍した工学博士・伊東忠太(1867-1954)によります。伊東は山形県米沢市に生まれ、帝国大学工科大学(現在の東京大学工学部)を卒業。京都の平安神宮や奈良の橿原神宮、東京の湯島聖堂や明治神宮、築地本願寺など、名だたる数多くの建物設計に携わりました。昭和18(1943)年には、建築界で初めて文化勲章を受章しています。
 この別邸は、有朋亡きあとの大正12(1923)年9月に発生した関東大震災で倒壊してしまいましたが、翌13(1924)年に有朋長男の伊三郎の手によって、有朋ゆかりの山縣農場内(現在地)に移築されたものです。
 現在、古稀庵は民間会社の研修所として使われていますが、当時の庭園は毎週日曜日に一般公開が行われており、観覧することができます。当時の古稀庵内には木造平屋建の本館と、ジョサイア・コンドル設計の煉瓦造りの平屋建別館、そして伊東忠太設計の別館があったとされています。また、同市内には古稀庵に水を引くための山縣水道が残されており、水源地は平成23年に土木遺産に認定されています。
 さて、山縣農場内に移築されたこの建物は、昭和初期に建てられた白い洋館とともに有朋の子孫の方が住んでいましたが、平成2年、現存する数少ない明治時代の洋風建造物として県文化財に指定されています。これを契機に建物の修復を行い、平成4年に山縣有朋記念館として開館しました。
 建物外観に華美な装飾は施されていませんが、正面右側に位置する玄関の扉には、山縣有朋のイニシャルである「Y・A」をアール・ヌーヴォー風にあしらったデザインが施されており、これは建物内部にも認められます。
 現在、正面玄関は閉じられており、来館者は正面左側のサンルームから入館する形になっています。展示スペースは明治期の洋館から昭和時代の白い洋館2階まで広がっており、戊辰戦争や日清・日露戦争等、有朋が関わった戦役の陣営具や厨房用具、軍服や肩章、徽章など、有朋の遺品や資料などが数多く展示されています。特に、明治25(1892)年、山縣農場管理者であった森勝蔵が残した絵巻物「伊佐野農場図稿」には、当時の農場の様子が詳細に描かれており、必見です。
 2階の応接間には、椅子やテーブルなどの家具が残されており、当時の様子を垣間見ることができます。平成26年、建物外観の修理を実施しました。

矢板武旧宅

 江戸時代の矢板村は、大田原の奥州街道から今市の日光街道へ至る「日光北街道」の宿場町として栄えました。 現在、矢板武旧宅は本町交差点の角に位置していますが、江戸時代は交差点から南北に貫く道はなく、街道沿いの一軒にすぎませんでした。
 明治17(1884)年、新しく陸羽街道が整備されると矢板武宅前が丁字路となり、より多くの人が行き交うようになりました。敷地南側の陸羽街道に面したところには、江戸時代から存在する大きな長屋門が構えられており、街道分岐点のランドマーク的な存在であったことと思われます。ちなみに那須塩原市関谷から続く塩原街道が本町交差点に接続し、十字路となったのは昭和の初めになってからのことです。
 長屋門をくぐると、大きなキンモクセイが出迎え、正面に母家の玄関が現れます。玄関を潜ると勝海舟直筆の大きな扁額が掲げられています。書は「聚薼亭(しゅうじんてい)」で、意味は「薼まみれになって働いている人が聚まる屋敷」であると矢板家に伝わっているものです。那須野が原開拓について矢板武宅で日々議論を重ねる人たちを見て、名付けたのでしょうか。書の内容については現在も調査中です。
 正面玄関から東側に入ると、客間(下座敷)で、そこから奥へ客間(中座敷)、客間(上座敷)という畳敷きの空間が広がっています。特に客間(上座敷)は鴨居に装飾金具が施され、柱は面取りされるなど、他の部屋とは違った意匠が凝らされており、一番格式高い部屋であることが分かります。正面玄関から西側、そして屋敷北側は居住空間であったと考えられています。
 矢板武宅は平成9年まで子孫の方が住んでいたため、母家は江戸から昭和の建築様式が混在してます。建築方法の特色から明治と昭和初期に大規模リフォームがなされていると考えらえています。しかし、母家中央の仏間や北西隅の土間などは古い建築部材が残されており、江戸時代の名残を垣間見ることができます。
 母家の北側には蔵が2棟あり、いずれも江戸時代の建造物とされています。そしてその東側には樹齢約190年の枝垂桜があり、平成10年2月、市の天然記念物に指定されました。武の生涯を見届けてきたこの桜は、武の父、坂巻五右衛門の代に植えられたと伝えられています。現在、3月末~4月頭の開花シーズンにライトアップを行っています。
 矢板家の建造物は、平成9年に矢板家より矢板市に寄贈され、平成10年に矢板武記念館として開館しました。寄贈当時、長屋門の西側には本町郵便局の建物が増築されていましたが、平成17年、道路拡幅工事の際に郵便局建物の解体、及び長屋門の復元工事を実施しています。平成29年には母家内の展示室を「矢板武の生い立ち」から「矢板家の残した品々」まで5つのテーマにわけ、矢板武の生涯が辿れるようリニューアルを実施しました。    
 敷地は平成10年に市文化財(史跡)に指定、平成13年に長屋門・母家・蔵が市文化財(建造物)に指定されました。

山縣農場

 山縣農場は、矢板市北部の上伊佐野・下伊佐野・平野地区に跨る山縣有朋により拓かれた農場です。
 江戸時代、山縣農場が拓かれた土地は、周辺の村々の入会地で、これらは明治時代になると官有地に繰り入れられました。明治13(1880)年以降、那須野が原地域の農場開設が活発に動き出し、この上伊佐野・下伊佐野・平野地区に跨る官有地においても、渋沢栄一と増田教・渋沢喜作・小松彰の4名が国から土地を拝借し、牧畜を目的とした農場開設をしようと試みていました。しかし、実現には至りませんでした。
 次に、この土地に目を付けたのが山縣有朋でした。山縣が官有地を拝借する際、地元の矢板武が尽力し、明治17(1884)年に地元住民の同意を得て、山縣農場は開設に至りました。
 山縣農場の範囲については諸説ありましたが、最近になって明治17(1884) 年に山縣側から国へ提出された官有地の拝借願が再発見され、その書類に農場範囲を示す絵図が添付されていたことから、おおよその範囲が確認されました。この範囲は、現在でも「第一農場」「第二農場」という行政区名が残されています。
 山縣農場には、有朋本人は常駐せず、管理者が置かれていました。当時の農場の様子は、明治25(1892)年に当時の管理者であった森勝蔵が記した「伊佐野農場図稿」(以下、図稿と記す)に詳しく書かれています。
図稿は、「巻之一」「巻之二」「巻之三」の3つの巻物からなり、内容は「地理之部」「農具之部」「耕耘之部」「雑務之部」の4つで構成されています。
 山縣農場へは上伊佐野地内の塩原街道(県道30号線)から西へ分岐し、矢板市立郷土資料館の西側をかすめながら向かいます。道が緩やかな上り坂になり両側が拓けると、道路左側に市の天然記念物に指定されている「二本木の笠松」が見えてきます。大正5(1916)年に有朋はこの松について「かえりみぬ 人こそなけれ 伊佐野原 世に珍らしき 松の姿を(よ)」と歌を詠んでおり、当時から一目置く存在でったことが伺えます。
 さらに道を進むと、右手に火の見櫓がある公園があり、ここが農場の入口であったと推定されます。図稿によると、「従是北山縣有朋所有地(明治弐十年第一月)」と書かれた標柱が建っていたことが描かれています。ここより、道は直線的になりますが、途中、木ノ目沢を渡橋する地点のみクランク状に折れ曲がっています。この橋が「晴曠橋」で、図稿には「(抜粋)木製ニシテ黒染ノ欄干ヲ施シ、牛馬通行支障ナシ。橋ノ両岸水田相連リテ風致アリ」と記されています。さらに道を進むと、終点が農場事務所で、現在でもその区画を確認することができます。
 山縣農場は、戦後の農地解放を待たず、平地部分を昭和9年に小作人へ払下げを行いました。そして山林については、子孫の方が現在でも管理を続けています。

矢板のリンゴ

 矢板市は、標高の低い土地でリンゴが生産できる南限といわれ、現在は18のリンゴ園が盛んに生産しています。 矢板市史によると、大正3(1914)年、山縣有朋が青森県から技師を呼び、苗木を植栽したのが始まりとされます。当初は成功しませんでしたが、昭和15年頃から収穫が始まったとされます。

5.その他

 詳細ストーリーや、その他の構成文化財につきましては、「日本遺産ポータルサイト(文化庁)」をご覧ください。 
日本遺産ポータルサイト